先日、長沢蘆雪展を見に行ってきました。
うちのポメラニアンそっくりな犬がたくさん居て大変眼福でした!蘆雪犬かわいいよ蘆雪犬。
目当てはもちろん蘆雪犬だったのですが、一緒に飾られていた禅画関係の解説で感銘を受けかなり考えさせられました。
『絵の価値とは上手い事なのか?上手い事だけが絵の価値なのか?』
を問う、あえて上手さとかけ離した絵を描いた掛け軸などもありまして(そして心の中で「十分上手い絵だよ!!」とツッコミつつ)、昔からこの『上手いだけでは絶対的な価値にならない』と言う芸術に対する謎は変わらないのだなーと。
一体何が人の心を動かすのか?
情熱または遊び心。表現を通して伝えたい感情。そしてそれを正確かつ明瞭に伝える技術。
個人的にこれらは必須だと思ってます。
でも明らかにある一定以上の技術は必要とされるが、それだけでは人の心は動かせない”何か”が存在する。
が、その”何か”が明確に定義出来ないジレンマ。
技術だけでは壊せない。だが技術が無ければ乗り越えられない。ここが表現者の壁に感じます。技術と個の壁。
この先に行くにはこだわりと言う名の狂気と執念、そしてこれこそが己の表現したいものだと言う絶対的な個(not我)が必要なのかな、と。
こと表現においての創作者なんてなんぼ狂っててもイイですからね!人に迷惑かけなければ。
(倫理観かなぐり捨てるのも芸術としてはありだと思うが、不快感そのものを表現にする事と他者を傷付けることを表現の目的にする事は違う)
こだわりの無い創作はどうしても深く刺さらない。何かが足りない。
『この程度でいいだろう』は見る人に伝わる。いや『その程度にしか人に伝わらない』か?
そしてそれに気付くには遠回りしてでもやってみようと思った事を実践してみるしかない。
一発で正解には辿り着けないから。
蘆雪もやっぱりふわふわな毛に対するこだわりが師匠より感じられましたよ、あの柔らかい毛の感じ。
『これが!この毛流が!オレの理想のふわもこだっ‼』って言うか。
真面目な事を言いますと、蘆雪自身が4人の子どもを失っていると言う前提を考えると”蘆雪犬”のあの現代にも伝わる愛くるしさの正体は、蘆雪の『小さき者への愛』なのかな、と。
愛はどうしても矮小化されると言うか、男女の恋愛的なものが先入的に来るため俗っぽくなりがちなのですが、創作者として最も多くを占めねばいけないものだと思ってます。
いや、商業的に言ってしまうと占めなければ”いけない”ものではないか。
商業ベースで言ってしまえば売れた物こそが正義でそこに愛が無くてもいいものですが、私はどうもその考え方には魅力を感じない。金儲けとしては間違いなく正解ですが。
商業製品もベストセラーと言うか大ヒット商品だったりは、開発者の執念によって出来上がっていたりしますし、そう言う裏話がやっぱり好きだし応援したくなる。
お金は大事だがことエンターテイメントや芸術において拝金主義はちょっと面白みが足りないよなー、と思っちゃいます。勿論お金は欲しいんだけどね!!(強欲)
だからお金の為の創作も否定する気はない。お金の為に創作してお金に出来るのならそれは一流の仕事人だし職人技だから。
ただ自分の創作願望とは根本が違うなとは思う。作る為にお金が必要ってだけだし。
綺麗事だが、これが本音。
自分が目標とする表現とは何か?改めて己に問う良い機会となりました。
行って良かったー!
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……私もハンドメイド用にスイーツな感じの絵を描いたり女の子を描くのが好きだったりでイラストはガーリー寄りなのですが、一方で好きな漫画がヒラコー作品だったり唯一無二の推しアーティストがamazarashiだったりハマりやすい映像ジャンルが時代劇やら西部劇だったりカラオケの十八番は黄金魂だったりと、割と大概アレな自覚はあります。
恐らく外側はふわふわキラキラきれいかわいいが大好きなんですけど、内側は孤独や弱さを持ちながらそれでもなお前へと進もうとするどうしようもない泥臭さや強さと言ったものに強く惹かれるのかな、と。
好きなものを並べると自分の中の創作における譲れないものと命題が見えてくるの面白い。
多分、ここが私の創作者としての壁ですね。
外側と内側の不一致と言うか、絵で己の内側にあるものを表現出来てない。
だから多分今の私の1枚絵には何かが足りない。
一方でずっと「漫画を描きたい!」と言う想いから解放されずいい歳して漫画の再勉強して制作中なのは、多分漫画こそが自分の内側にあるものを表現出来る手段だからだと思ってます。
いやほんと10年以上前に漫画を描いた時はダメダメでともだちに「まず4コマから始めた方が良い」とダメ出しくらうくらい全然漫画描けなくて!
それで『自分は漫画を描くの無理だ……。』と諦めていたし、「漫画描かないの?」と聞かれればアレコレ屁理屈言ってのらりくらり自分の本心から逃げていたのですが、数年前に別のともだちがプロ漫画家デビューしたのをきっかけに『やっぱり私も漫画描きたいっ‼』欲が爆発しちゃったんですよね。
どうしてもやらずには私の人生終われない様です。参った。
そこから重い腰上げて本格的に漫画の教本など購入したり動画見たり好きな漫画を事細かく見てコマの流れや運びを学んだりと、どうにかして自分も漫画を描ける様になるために藻掻いてます。
そういう意味ではリヒとノイの4コマ漫画には、すごく学ばせてもらったなーと。
リヒトもノイも本当にどうもありがとう。
ちなみに昔の私が1番出来なかったのは『コマとコマの間の流れを埋める(コマの場面がブツ切り飛び飛び状態で上手くつながっていない、要するに説明不足過ぎて訳わからん展開状態)』だったのですが、これを克服させてくれたのは『ずっとやりたかったことを、やりなさい』に載っていたモーニングノートでした。
毎朝A4のノートに3ページ、頭に思い浮かんだ事を全て書く。と言うもの。
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とは言え流石に毎日3ページは無理だったので自己流に『思いついた時に思いついた事をノートに即書く』で実行していたのですが、大学ノート1冊分終わる頃にはかなりコマの繋げ方が改善されましたねー。
恐らくアウトプットのやり方と言うか、脳内のイメージのトレース訓練ですかねこれ。
多分、昔の私の場合は”頭の中にあるものをそのままに書き出す事”が上手く出来てなかったのかな、と。
実際、当時は頭の中の言葉をそのまま口に出そうとしているのに、靄がかかったみたいに断片的でブツ切り状態の言葉になってしまい苦しかった記憶が。
(言葉として出そうとするとブレーキがかかった様になり”そのまま”の言葉が出ない感覚。伝えたいのに”そのまま”が伝えられない。思い当たる原因はまああるけどもうそれは仕方がない)
だからこの方法でだいぶ脳内のものをスムーズに写し出せるようになったのかも。
どうしても色々な事に気付き知る為に時間が必要だった。全て必要な経験だった。だから今からでは遅いとは思っていない。
今の自分だからこそ、描ける。今の自分でなければ、描けない。
まあまだ漫画が全然進んでいないのですが、少なくとも昔よりは漫画としての形になってるんじゃないかなー、とは思ってます。
前よりパースも理解出来て背景もそれっぽくは描ける様になったし。
最低限、読める形には出来上がってくれると良いな。
どうしても私にとって創作とは、己との対話的な部分が強いようです。
創作を通して己を知る作業。
そして創作って脳内露出狂の極みだよなぁ……。
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